「俺は酷い奴じゃき、」





声色からは少しだけ申し訳無さが滲んでいた。ように思う。
表情はわからない。
今やほとんど沈みかけているが、夕陽を背に座っている所為で顔が良く見えない。
加えて、仁王くんのすこし長い髪の毛が、前屈みになっていることで更に表情を隠す。
なので仁王くんがどういう表情をしているのかよくわからなかった。
だけどそのことはあまり問題ではなく、もっと気になるのは私にとって仁王くんは全くもって「酷い奴」ではないのに、そんな言葉を発することだ。



「なんで、そんなこと」

今まで仁王くんと話したこと、どこかに行ったときの行動の記憶をできるかぎりひっくりかえして探してみたってどうにも思いつかない。
こうして屋上で二人座りこんで話している今だって、そんな台詞を引き出すような流れにはなっていないはずだ。



王者立海と呼ばれるテニス部メンバーの中でも、特に曲者を呼ばれる仁王くんは、特に何の取り柄も無く1年生からずっと帰宅部の私とはただのクラスメイトで、それ以上の関係は全く無かった。
無かったはずだ。それなのにどうして今、こんなにも一緒に過ごしているのだろう。
今日だって、こんな風に仁王くんの数少ない、部活が休みの放課後に人一人居ない屋上で意味無く日没を見届けている。

ただのクラスメイトからどういう風にこうなったか、正直よく思い出せない。
私と仁王くんの出会いを思い出してみると、廊下を曲がったところでぶつかっちゃった!とか、席が隣同士に!だとか、漫画みたいな劇的なきっかけは何も無かったと思う。
仁王くんが話しかけてきたような気もするし、なんとなく私が話しかけたような気もする。
飄々としていてどこか話しかけづらいと思っていた仁王くんも、慣れてみれば普通の男の子で、でもどこかつかみどころの無い感じが私の今までのどの友達とも違って、ひきこまれていった。
事実、何を話して何処へ行っても、誰よりも私は楽しかった。
そうなってしまえば、仁王くんは最初からこんな存在だったような気もする、と錯覚することもある。
最初の頃のたどたどしさも、確かにあったはずなのに思い出せない。
思い出す度に、思い出せなくなっていく気もする。

そして思い出せなくてもかまわない位に仁王くんと居るのは楽しかったし、酷い事をされたことなんて微塵の記憶も無い。


仁王くんの顔が見えないまま、オレンジ色が次第に呑まれていき、街の輪郭も段々失われていく。

「そんなことない」

私ははっきりと否定の言葉を発した。

そんなことない。
私は仁王くんを。

…どうなのかというと、これまたよく分からなかったが、恐らく普通の友人よりは確実に上の存在になってしまっている。
しかし私か口を噤んだのは名前を知らないこの気持ちを伝えるのが億劫になったからではない。

顔を上げてわずかに光が差し込んでいた仁王くんの表情は、予想していたものとは違ったからだ。




「いや、」

酷い奴じゃ。

仁王くんは笑っていた。今まで見た事の無いくらい、満足げな顔で。





「お前さんを手放す気は、もう無い」





視界が回転した。沈みかけの夕陽でかすかに見える街並みを眺めていたはずの視界は雲がところどころ混じる青紫の空に移された。


「なあ、好きなんじゃ」

押し倒されている、と脳が理解した時にはもう、噛み付くようにキスをされていた。
目を閉じる事もできずに、ぼお、とただ唇に覚える刺激を感じていた。
また何かを忘れる気がする。


「仁王くん、私も」


気が付いたらそう口にしていて、それを唇が離れる一瞬一瞬に繰り返した。

仁王くん、好き、好き、好き、大好き、大好き、あいしてる。愛してる。愛してる。

さっきまでの名前も知らない感情はもうとうに忘れてしまった。
あの感情からどうして一瞬でこんな変化が起きたのかは、わからない。覚えていない。
むしろ最初からこうだったんじゃないかと言うほど、前の事は忘れてしまった。

きっと最初からこうしようとしていたんだ。
きっと仁王くんと最初に話した時に、こうなることは決まっていたんだ。
ゆっくりとゆっくりと、私が仁王くんしか見えなくなるように魔法をかけていたんだ。
私は仁王くんを好きになる。好きに、なった。


「もう逃げられんぜよ」

仁王くんがさら、と私の前髪をすく。


「だいじょうぶ、逃げるなんてもの、忘れるから」


仁王くんは満足そうに微笑んだ。







110828 まさはるのイリュージョン。メテオドライブ。